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お寺や神社との関係

琵琶を演奏する。
普通に考えれば、日本の伝統芸能の楽器の一つを演奏する。
ただそれだけのことです。

楽器があって、楽譜があって、師匠がいる。
一つの曲――例えば筑前琵琶日本橘会の曲は、1つの演目で30~40分ほどかかります――
それを、時間をかけて稽古に通い、練習を積み、自分のものにしていく。
演奏する機会があれば、それを要請された内容に沿うように曲をアレンジ(辻褄が合うようにカットしてつなぐ)して演奏する。
流派によっては、楽譜を目前に置き、流派によっては楽譜は置かず、眼を半ば閉じるようにして曲と向き合う。

その昔、“語り物”として、その物語に生命を吹き込んでいた頃とは異なり、演奏会が開催されることに伴って、出場曲をエントリーして、稽古して、時間通りに演奏する。
だいたい、そんな感じでしょうか?
私は、いわゆる“歴女”にはまだまだですが、日本の歴史が大好き。
中学時代から柴田錬三郎の剣豪小説にはまり、武士としての美学、というものに興味を抱いてきた人間でしたので、大学の卒業論文で琵琶を題材に取り上げ、社会人になって実際に琵琶を演奏することを始めてから、その歌詞の中に武士の美学がきちんと描かれていることを知って、琵琶を演奏することを楽しんできました。
物語を語る芸能ですので、本人に自覚はなくとも、その物語に入り込んでしまう場合もままあります。
琵琶は、その物語の中に、いわゆるナレーターと登場人物の心情や台詞が含まれており、それを声色を使い分けて語る、ということは、流派によってしたりしなかったり、であるにせよ、とにかく、一人舞台のようなものなのです。

私は、その場面にどのような出来事が描かれているのか、思い描きながら演奏するようにしています。
自分が何を語っているかわからないようでは、聴いて下さる方々にもその臨場感が伝わらないのではないか、と思うためです。
以前、違う流派の大先輩の方から、「お話の中に入っちゃうようでは、まだまだ…」と指摘されたこともございましたが、今は、自分を信頼して、演奏させていただく曲と真摯に向かい合う演奏を心がけています。

また、それは、今は昔、人々が琵琶の弾き語りを楽しみにしていた時代の、“鎮魂”というものにも少し繋がっているかもしれません。 例えば、平家物語の場合、浮かばれない平家の霊魂を慰める目的で物語を演奏し、それを語ることで物語の登場人物の霊魂を鎮めていた、という背景もございました。 私の演奏で、物語に登場する哀しい生涯を生きた人物の魂を慰められる、とは思っておりませんが、ものがたりを演奏することで、そのような人物が歴史の中に生きていたのだということを知っていただくきっかけのひとつにはなるのかな、と思っております。

琵琶を演奏する人のすべてが、このようなことを考えながら演奏しているわけではないと思いますが、「琵琶を演奏すること」というのは、普通に弦楽器を演奏するのとは、少し違うエッセンスが含まれるのかしらん、と思うのです。 また、好むと好まざるとに関わらず、いま、琵琶楽に携わっている人は、琵琶に魅せられ、または琵琶に見込まれた人たちなのかも、とも思うのです。

「琴三日、三味線一年、琵琶一生」 といわれた楽器なのです。 真剣に向き合うには、覚悟も要る楽器なのかもしれませんね。 次のお話は、琵琶と文学についてお話します。